物の値段とは…
夏休み明けのさっき、初めて280円吉牛を食べた。ま、予想通り、肉の量とか、味が落ちたわけじゃなくて、それどころかこの280円キャンペーンのおかげでサービスが良くなったくらい。で、たまご味噌汁付きでしめて380円也?。モスバーガー一個でもそのくらいだし、「世の中どーなってんだ!」って思ったけど、つくづく物の値段とは…って考えさせられるよね。
だからさ。牛丼280円で、例えば倍の560円のラーメンが2倍うまいか! っていうとそうでないわけよ。当たり前だけど。でもどっか探してるんだよね。そういう合理性を。っていうか整合性、もしくは「落とし所」。
現代日本、別に外国でもそうなんだけど不思議なのが、一人1万円の寿司とかイタ飯たべた翌日に、280円の牛丼食べる時とかあって、当然なのだが、どっちも腹いっぱいで、カロリー摂取という観点から考えるともしかして牛丼の方が体にいいかもしれないということ。
これはクルマにも言えて、値段下がったとはいえ、ポルシェ911約1000万円だけど、軽自動車ならマトモなのが100万円もあれば買える。そして実は軽自動車の方が4人ゆったり乗れるという面白さ。こういう疑問はいまさらで、もうとっくに実用性ともの値段が正比例する時代は去ってるわけだけど、最近、この「物の値段の多様性」というのがますます広がってる気がする。いや「物の値段」というより「人の価値観」とでもいうか。
だってさ、東大卒で大蔵省というコースが一番いいという時代ではとっくになく、ぐーたらでプータローで下手するとホームレスという生活にも、抵抗はそれほどないでしょ。やったことないけど。
で、実はこういう多様性を生み出したのは、「牛丼280円」の吉野家や「Tシャツ500円(たぶん)」のユニクロの存在なんではないだろうか。落ちる気になればいつでも落ちれる。しかもそれほどみすぼらしくもない。牛丼なんか24時間営業でもあるし、本来営利目的なはずのものが、どちらかというと共産主義的に俺達の生活を保証してくれる公共施設にもなっている。なんつーか、ひとつの民主主義が生んだ社会主義。
だから物の値段っつうのはやっぱ大きいよね。つまり逆に言うといわゆる一般的に「高いけどいい」と言われるブランド物というのは、そういう意味で、堕落を防いでいるのかもしれない。現代人の精神の拠り所になっているという意味で。