テレビというメディアの本質
最近、サッカーを見ていてつくづく思い知らされることがある。それはテレビというメディアの本質だ。きっかけは今回の日本代表に関する報道のトーン。単純に一時のオリンピック女子バレーボール中継に近づいている。「まだまだ、次よ次!」「よしがんばった、ミラクル見せてくれ!」「死ぬ気で最後までがんばろう!」。
アホか、と言いたくなるがそれくらいの美辞麗句の羅列というか、宗教的なまでの前向き報道しか“許されなくなりつつ”ある。よほど週刊文春、新潮、そして週刊プレイボーリの方がリベラルで良心的で大人だ。
そう、今のテレビは極端な視聴率史上主義だから逆に視聴者のココロをえぐる放送は許されないのだ。結果として、幼稚園、小学生レベルのマインドに準じた報道しか残らなくなる。
今の俺には、テレビだけを見てると、俺はこの国の国民が、とっても浮かれてるように見えてくる。極端な話、「みんなそんなに夢みたいの?」「マジで、そんなこと思ってんの?」という。だからジャニーズレベルのアイドルと妙にマッチする。「最後まで頑張った方がえらい」「汗が美しい」「ピュアって最高」「俺たちがんばった」みたいなある種の子供っぽいナルシシズム。正直、俺からみると気持ち悪く、しかも腹立たしい。
そう、テレビというメディアは極端なのだ。甘口と辛口、それしかない。冷静な報道、現実的な報道、というのはウケないし、ありえない。簡単に言って子供向きであり、正確に言えば“子供のマインドを持った大人向け”なのだ。
なにがポイントなのか。それは読者に対し、辛らつな思いをさせずに娯楽を提供すること。つまり、基本的に悪口はギリギリまで言わない。なぜならば、悪口、批判とは、批判する側にそれなりに心理的負担が求められるからである。悪口ばかり言ってると自分も悪人のような気がしてくる…は本当。だからスポーツジャーナリズムレベルで、批判はほとんど成立しない。せいぜい「アレは悪かったけど、がんばった」とか「あのパス以外は良かった」とか、救いを残す形で批判が成立している。あとは基本的に美辞麗句の羅列。
ただし、完全に悪人と言われる人に対しては、極悪なまでの報道がなされる。それは子供を殺した犯人に対して、チカンをした有名人に対して、経済犯罪を犯したお金持ちに対してだ。要するに「心置きなく悪口を言える人」に対しては容赦なく悪口を浴びせかけ、快楽を得る。それは、“誰もが認める悪人”だから、悪いことを言おうが罪の意識を覚えないからである。
いまやテレビは報道ではなくなりつつある。単純に“快楽を得る手段”になりつつある。それも“楽をして”。その結果、子供向けのお菓子のように、極端に甘いか、辛いか、あるいは体にいいか、悪いか、そういうものしか残らなくなる。そして生まれたのが今のスポーツ報道であり、小泉政権なのだ。
小泉政権は、ちまた言われるように、大したことはしていない。現実的には借金も減ってないし、生活も楽になってない。一部、永田町の構造を変えただけであろう。
だが、非常に子供っぽい味付けのショーになっている。だからウケる。だから票を稼げるのだ。
その昔、「テレビを見るとバカになる」といわれて俺は育った。それは「テレビがバカなことを報道するから」という理由だったが、それは一部本当で、結果としてとんでもない世の中を生み出しつつある。それは「子供っぽい味付けの世界」である。
大人の世界には、苦味の中に旨味があったり、旨味の中に苦味があるものも多い。しかし、もはやそういうものはテレビではウケない。コンビニとファミレスで育った子が、生ガキや内蔵系を食えないとの似ている。
つくづく今の日本はやばい。